人の話を「きちんと聴こう」と意識したとき、つい身につけたスキルやテクニックに頼ってしまうことがある。
「うなずく」
「相槌を打つ」
「相手の言葉をオウム返しする」
「目を見る」「傾聴する姿勢を取る」
もちろん、これらは相手との信頼関係を築くうえで有効な手段だ。
だが、それは“心が伴っている”場合に限る。
形だけのテクニックは、すぐに見抜かれる。
心がこもっていない共感は、むしろ相手との距離を広げてしまう。
「わかろう」という気持ちだけが扉を開く
偽善や下心があると、どれほど巧みな聴き方をしても、相手の心は開かれない。
人は本能的に感じ取っている。
──この人は本当に聴こうとしているか。
──それとも、自分の主張のために聴いているふりをしているだけか。
本当に相手のことを理解したいと願い、その気持ちから耳を傾けたとき、相手の中から、言葉が“流れ出る”ように語られ始める瞬間がある。
感情や思いが、そのままの形でこぼれ出るように。
そのとき、こちらは言葉を失う。
言葉を挟む余地などない。
ただ黙って、その人の世界に寄り添うだけだ。
共感には、言葉がいらないときがある
あるとき、親友が深く傷ついた出来事について話してくれたことがあった。
私は何か気の利いた言葉を探そうとしたが、どんな言葉も軽薄に感じられ、結局、何も言えなかった。
ただ、うなずき、黙ってそばにいた。
しばらくして彼はこう言った。
「ありがとう。お前が黙っていてくれたから、話せた気がする」
共感とは、“理解しています”と言うことではなく、“理解しようとする姿勢”そのものなのだ。
そして、その姿勢は、ときに言葉よりもずっと雄弁に語る。
テクニックの“限界”を知ることが、本当の始まり
もちろん、聴くための技術は役に立つ。
だがそれは、心から相手を理解したいという“意図”があってはじめて機能するものだ。
テクニックは“型”にすぎない。
その中に“気持ち”がなければ、空っぽの器でしかない。
そして、相手はその空っぽさを肌で感じ取る。
たとえばカウンセリングや面談の現場では、「ちゃんと聴いてるよ」というポーズを取っていても、心のどこかで「早く話を切り上げたい」「アドバイスを言いたい」と思っていれば、相手の本音は決して語られない。
聴くという行為は、“理解したい”という気持ちをかたちにする行動であり、その本気度が、相手の“心の扉”をノックする。
実例:共感が起こした小さな奇跡
以前、ある企業で離職傾向の高い若手社員にインタビューをした際、一人の社員がこう語ってくれた。
「最初は、毎月の面談なんて意味がないと思っていたんです。形式だけだろうって。
でも、ある日、上司が何も言わずにずっと話を聴いてくれたことがあって。
その日だけは、面談のあと、なぜか涙が出ました。
話を“聴いてもらった”というより、“理解してもらえた”感じがしたんです」
彼は、その体験を境に、少しずつ職場に前向きな姿勢を取り戻していった。
心から話を聴こうとする姿勢は、人の心を動かし、関係性を変える力がある。
おわりに──「聴く」とは、信頼の表現である
本当に誰かを理解したいと思ったとき、必要なのは言葉ではなく、相手の立場に身を置こうとする“覚悟”である。
「何を言おう」ではなく、
「この人の内側を知りたい」と願うこと。
そこに偽りがなければ、たとえ沈黙でも伝わるものがある。
テクニックでは届かないところに、共感の本質はある。
だから、今日もまた、誰かの話に心から耳を傾けてみよう。
言葉を探さなくてもいい。
ただ、聴くことに誠実であれば、それで十分なのだから。
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